チャンピオンとして生まれた男のストーリー

僕の人生は1976年、スリナムの首都、パラマリボにて誕生した時点から始まる。5歳のとき、家族と共に大西洋を渡り、オランダという新しい国で新しい生活をスタートさせることとなった。このような大きな変化は、僕にとってあまり心地よいものではなかったであろうと思う人もいるかもしれない。事実はその反対で、僕自身、とても興奮したことを覚えている。1981年、母、兄のミルトン、姉のイヴェッテと僕はオランダに移住し、当時既にオランダに住んでおり仕事もしていた父と再会した。父は仕事の関係で、僕らより数年前にスリナムを後にしていた。オランダ人の男の子なら誰でもやるのが当たり前だったサッカーを、僕は5歳の年齢で始めた。オランダで人気のあるこのスポーツを僕はこよなく愛し、心も魂も捧げた。ポジションはディフェンスとキーパーのバックアップ。サッカーなしの人生なんてとても考えられなかった…。

ところが、16歳のとき、不運なことに左足を骨折。最低2ヶ月はプレーできないと分かったその時の落胆ははかりしれない。コンディションも落ちることになるし、お決まりの日課も無くなってしまうことになり、考えただけでも落ち込んでしまった。

8週間後にギブスがとれた。特に夏が訪れる時期でもあったので、どれほど嬉しかったことだろう。夏の間、あんな固いものを足の周りに取り付けられたままだなんて、事実、誰だって嫌なものだから。この年頃の若者にとっては最悪な監獄状態になってただろうと思う。

やっかいな怪我が快復した後、負傷前と同じレヴェルには戻れなかった。快復のプロセスに原因があったのだ。快復期間中、適切な指導を受けなかったため、腰に痛みが発生。この痛みのために、前ほど速く走ったり、自分が思うほど速くスプリントできなくなっていた。

心の中ではサッカーをどうしても諦めることが出来なかったので、もう1シーズン練習してプレーすることにしてみたが、それでも、自分が望むレヴェルには戻れなかった。

しばらく悩んだ後、サッカーを続けることを断念。とてもタフな決断だった。メジャーリーグで活躍するサッカー選手になりたいという目的が消えてしまったのだから。自分の夢を実現するために生きていくことが不可能になったという現実に直面し、辛かった。

この頃の僕は高校生。十代の男の子だったら誰でもするように、友達と女の子のこと、サッカーやパーティーについて話したものだ。ある日、前の晩に観た映画について皆で熱く議論を交わしていた。‘ブラッド・スポーツ’というタイトルで、ジャン=クロード・ヴァン・ダムの主演。

友達との会話の中で、キックボクシングについて話がはずみ、誰がヴァン・ダムを真似ることが出来るかということについて盛り上がった。その話がきっかけで、そのうちの一人が、キックボクシングを習えるジムに通っていると告白。

‘メジロジム’に行って誰がベストであるかお互いに証明しようじゃないかという挑戦を受けた僕らは、まさにそれを実行に移した。

道場での初めての経験は想像していたよりずっとハード。このスポーツに対する知識を十分に持ち合わせていなかったため、何が待ち受けているのかも分からなかった。しかしながら、最初の練習で基礎とコンディション・トレーニングをたっぷり行った後、僕は再び恋に陥ってしまった。バスケとかバレーボール、バドミントンやウェートリフティングなど、新しいスポーツを色々と探していたが、やっと好きになれるスポーツが見つかったのだ。それがキックボクシングだった。

‘メジロジム’に通い始めた友達の中で最終的に残ったのは僕だけ。積み重ねるトレーニングがより完璧な技術につながる。わずか半年後には最初の試合に参戦できる準備が整っていた。

一番最初の試合はとても重要なものだった。立ち向かう相手は、後にフリーファイターに転向したビッグ・タレント、ヴァレンタイン・オーフレイム。僕の神経は試合前から逆立っていた。初めての試合ということが主な理由だったが、友達も家族もスタンドに座っていたことからもある。

神経はさておき、試合に勝つことには楽観的だった。膝を使って対戦相手をギブアップに追い込み、バトルは1ラウンド半で終了。

このような感じで試合がいくつも続いた。勝利の後にまた勝利。波に乗って調子良く続けられたのは、自分が持っている能力だけに頼れるものではなかった。‘メジロジム’における大きなサポートと準備が主な理由と言えよう。

Aリーグの試合に参加する前までは、週に3回か4回しかトレーニングしていなかった。Aリーグのファイターたちに勝ち続けるためにはいくらなんでも足りない。K-1のようにもっと大きなものを達成したいのであれば、また、もっと強くなりたいのであれば、トレーニングの数を増やす必要があった。

当時の僕は25歳で、インターネットの大企業でネットワーク・オペレーターとして勤務。仕事をしながらキックボクシングを続けることがどんどん困難になってきていた時期でもある。試合のために外国へ行かなければならないこともあった。限られた休日数の中で、定期的に試合遠征し、しかも職場でも生産的であるというのは容易なことではない。

ある時、とても仲の良い友人から、断りようのないオファーが舞い込んだ。「レミー、君がK-1を選び、自分の時間の100%を使って全力を尽くすならば、俺がスポンサーになるから、思いっきり沢山練習して君の才能を伸ばせるようにしろよ。」決断は容易なものではなかった。職場にはもっと将来の保障があるし、反対に、自分の夢を諦めることはどうしてもしたくない。

最終的には、自分の全てを捧げ、自分の夢を追い続ける道を選んだ。



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